作者: 青木 清高
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2011年 12月 25日(日曜日) 13:12 |
私が生まれ育ったこの外尾山地区は、町内の地名の中でも唯一古くからの窯場であったことを示す『山』の一文字を残した所です。私はその地名に密かに誇りをもっています。この窯場は、有田の内山地区と外山地区の中間に位置し、1637年の藩による窯場の整理、統合の後も引き続き明治年間に至るまで稼働しました。内山、外山の双方の影響を強く残す製品が主ですが、遡れば1600年代の極めて早い時期の創業を示す、砂目積み陶器、磁器も出土します。
■写真説明 外尾山窯跡(登り窯の窯床が現在は段々畑になっている。)
つい最近20年~30年前まで百間窯の製品であると考えられていたこの、波乗り兎の皿も、近年の発掘調査の結果、外尾山窯より、その陶辺が出土しました。
■写真説明 初期伊万里波兎紋皿1620年~1630年 青木龍山コレクション
私の先祖も、代々この外尾山窯の窯焼きだったと言い伝えられておりますが、文政の大火の際にそのほとんどの過去帳が焼失した有田では、先祖の足どりを探すことは困難を極めます。しかしはっきりとした文献に登場するのは、安永元年(1772年)、泰国院様御年譜地取の中で、江戸佐賀藩邸焼失後の再建寄付者名簿の中に窯焼きとして登場します。初代より数えて直系ではないにしても、私の世代である12世に至るまで、窯の炎が消えなかったことは、窯焼き3代続かず、という有田の諺に反して、奇跡に近いことなのかもしれません。
■写真説明 外尾山地区の浮立、先祖に対しての供養の想いから磁器製笛の奉納浮立が行われている。
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最終更新 2012年 2月 21日(火曜日) 14:22 |
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作者: 青木 清高
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2011年 11月 08日(火曜日) 15:51 |
10月は第43回日展の審査員の仕事で、そのほとんどの時間を、東京六本木の国立新美術館で過ごしました。しかしながら同じく審査に当たられた芸術院会員の先生方をはじめ、東京芸大や京都芸大の先生がたと大変貴重な経験をさせていただいたと感謝しています。
日展は今から100数年前、1907年の第1回文展(文部省美術展)にその始まりがあります。1958年に再組織化され民営化されますが、明治以来、第4科工芸美術の作家は技術は当然のこととして、自身の想いを表現するということに重きを置いてきました。そしてその結果生み出されてきたものは製品ではなく作品と呼ばれてきたのです。明治、大正、昭和、平成を通じて日展の工芸が唱えてきた「創意本流」の視点がいつの時代にも共通した概念でした。
■写真説明 各科に分かれている国立新美術館の展示場
■写真説明 連日多くの来観者の方々で賑わう会場
多くの出品作の中から1審、2審、3審と厳正に鑑審査を繰り返し476点の作品が選別されました。審査員どうしも常に鍔迫り合いの一触即発の緊張感の中、慎重にかつ丁寧に審査が進んでゆきました。しかしそれは、これから先の日展を真剣に考えていた今年の審査員の共通の思いがあったからだと考えています。命懸けで制作された作品を、入選させるのも私たちの仕事ですが選外の作品を決めるのも私たちの仕事、大変な任務でした。第43回日展は東京のあと京都、大阪、名古屋、福岡、松江、金沢、福井と巡回します。
■写真説明 多くの若い作家の出品も目立った。 |
最終更新 2011年 11月 10日(木曜日) 07:27 |
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