昭和30年代後半~40年頃
第三話(全六話)
日展初入選から龍山窯の誕生
写真:龍山と綾子 昭和40年代中頃
晩年、父は当時を振り返り「何も持たず、貧しい時代やったけど、そいだけに人の情けのようわかる時代やった」とよく話していました。でも私から見て不思議な話ですがその頃の作品が時代の状況と裏腹に、躍動感があり生命力に満ち溢れています。まさに龍山のパワーを惜しみなく発揮しています。逆境がこの若い作家をどんどん大きくしていったのでしょう。 その時代はどこの家庭も経済的には大変だったと聞きます。 当然我が家も例外ではなく、父は昼間デザイナーとして働きに出かけ、休日の空いた時間には近所の子供たちに絵を教えておりました。だから日展などの公募展出品作品の制作はいつも深夜に及んでいました。
写真:龍山と綾子 昭和40年代中頃
そんな中で人知れず苦労が絶えなかったのが母でした。病気の祖母の看病をしながら家事をやりくりしていたようです。私たち子供の服は全て母の手製でした。また父や祖父祖母の分もつくる事もあり、「メイドイン綾子」と言って笑っていました。
食べ物は自宅前に畑を作って切り盛りしていました。何もそれは当時そんなに珍しいことではないのですが、生活を切り詰めることで何とか父の作陶の手助けを、と思っていたのでした。染錦などにつかう金や銀などは、当時から最高のものを使用してきまた。
体格も立派で何があっても動じない雰囲気の父に見えますが、やはり創作の途中で行き詰まることもしばしばで、新しい作品を生み出すときは常にその高い壁の前で悩んでいました。
写真:満武家の方々と父 後列左隼人氏 昭和30年代前半
また、青木兄弟商会という大きな会社の幹部としての将来が約束されていた父にとってそのスランプはとても大きな物だったと思います。しかしそんな時でも笑顔を絶やさない根っから明るい母がいたのでこの時代を乗り越えることが出来たし、力強い作品を世に発表できたのだと思います。東京オリンピックを控えた昭和38年戦後の物不足経済から日本も景気上昇機運の高まる中、父も東京世田谷在住の叔父満武隼人氏より資金援助を得て自宅に念願の自分の窯を持つことができました。
.満武氏は、早い時期より父の才能を誰よりもいち早く理解してくれた人でした。
それを機に窯主さんに気兼ねすることなく自由に思いのまま作品を焼成できるようになりました。その年の日展出品作「黒」は黒一色の作品で、後の父の作陶の世界を決定する最初の作品になったのでした。
第一話 『父 青木龍山』 独立から結婚まで
第二話 『父 青木龍山』 陶芸作家としてのめざめ
第三話 『父 青木龍山』 日展初入選から龍山窯の誕生
第四話 『父 青木龍山』 特選受賞
第五話 『父 青木龍山』 二人三脚
第六話 『父 青木龍山』 龍山と有田のまち
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