窯主エッセイ
大正時代の展示館と白切子電笠 PDF 印刷 Eメール
作者: 青木 清高   
2012年 5月 13日(日曜日) 13:38

今年の陶器市は、131万人の人出で陶器市としては史上2番目の賑わいだったそうです。私の窯場でもささやかですが、毎年陶器市用の作品の展示をしますが、裏通りになるためか、昔からのなじみのお客様が多いのですがそんな中、ホームページで紹介してある大正期の展示室照明器具である電笠を見せてくださいというお客様がおられました。ネットでは小さくて見えにくいのでここで少しご紹介します。

 

■写真 家紋が梅鉢だったからでしょうか?梅の切子電笠です。

■三燈式シャンデリア


本来焼き物屋さんなのですが築100年にもなるとその当時の照明器具やスイッチなどがとても存在感のある貴重な物になってきます。ここに紹介しています電笠やシャンデリアは全て、明治期から大正にかけて日本で作られたものです。


■写真 磁器製ローゼット

■磁器製ドアノブ

第2次世界大戦の頃、展示室のいろいろなアイテムが金属の軍事供出のため殆どがなくなってしまいました。数点のみ残された電笠やシャンデリアの金具を参考に10年前の展示館修復の際に昔を再現いたしました。アルセッド設計事務所さん、燦燈社さん、夢志坊さん、安田さん、もと憂歌団のギタリスト内田勘太郎さん、数々の貴重なアドバイス大変感謝しています。


■写真 雫型ブラケット

■写真 2燈式シャンデリアと白切子兜型電笠

■写真 展示館階段踊り場

■写真 一部磁器製真鍮スイッチ

 
 

 

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最終更新 2012年 5月 13日(日曜日) 16:04
 
有田へやって来た明の陶工?林久次兵衛 PDF 印刷 Eメール
作者: 青木 清高   
2012年 3月 11日(日曜日) 08:41

有田では窯場の整理統合が行われたあと、1640年代の比較的早い時期に中国から色絵の技術が入ってきます。西に位置する山辺田窯、東の楠木谷窯そして中心部の猿川窯あたりでそれぞれ別々のルーツを持つ色絵の技術が開花しました。

私の先祖と深い関係のある外尾山窯でも1650年代に入ると色絵の素地が生産されています。有田での色絵成立には単に技術の導入のみでなく、明から清に変わる激動期、中国の陶工の有田への流入があったのではないかと言われていますが実態はつかめていないそうです。
 
■写真  色絵菊文菊花形小皿(1650~1660)年頃 同型の皿の素地が外尾山窯より出土している。
      青木龍山コレクション
 
実は私のうちの先祖からの言い伝えで、林久次兵衛という人物のことが出てきます。この人は青木の窯に大変貢献した人だったらしいのですが、亡くなられたときに身寄りがなかっかったために先祖が弔い、お墓を建てたそうです。
元禄12年 俗名 林久次兵衛 正誉覚天 施主 青木玄二(善之丞のこと、系図参照)とお墓に記されています。300年以上も前の話ですが、墓は廟祖谷古窯跡の一番上にありました。周囲には先人陶工の古い石塔が目立ちます。この人物こそが明から渡来してきた複数の陶工の一人ではなかったかと勝手に考えています。実証する術も無く、想像の域を超えませんが、中国からの技術者の話は、韓半島からの渡来陶工の話の影に隠れてしまいがちなのですが、有田でも古くからつづく窯元には、この話と似たようなは言い伝えが他にもあるのかもしれません。
 
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