我家が、焼物の仕事を始めたのはいつの頃からなのか、とにかく、昔からだろうとは思うのだけど、「じいちゃんの又、そのじいちゃんの頃からずっとたい」と今まで言い聞かされてきました。
しかしはっきりとした文献に登場するのは、安永元年の泰国院様御年譜地取の中で、江戸佐賀藩邸が焼失した時の、有田皿山からの寄附者名簿の中に外尾山窯焼として、我家の先祖の名前が登場して来ます。
先祖の墓の中には元禄くらいからの墓石が残っているので、おそらく1600年代の中頃位にはすでに窯焼として、この外尾山の地にくらしていたのかも知れません。外尾山と言えば、初期伊万里の名品を数多く生み出したちょうど、内山地区と外山地区の中間に位置する窯場で、古い物では 1610年代の砂目づみ陶器から出土する有田焼の歴史ある古窯のひとつです。
廃藩後、明治14年、私の曽祖父青木甚一郎は、外尾山の共同窯の権利を買い取り、弟の栄次郎と共に、青木兄弟商会(あおきけいていしょうかい)を立ち上げました。「かくあお」のブランドで、国内外向けの日常品から貿易用の美術品までを手広く手掛け、神戸に、貿易を主とした支店もその頃作ったと言うことです。その後の事業は、俊郎と祖父重雄(滋雄)兄弟に引き継がれました。
昭和に入ってからは、本家の長でもあった、青木恭に事業が引き継がれ、私の父龍山も、分家の長として、会社経営に奔走しましたが、昭和32年に明治14年以来続いた青木兄弟商会は、姿を消すことになりました。
しかし、この会社の倒産が、龍山を個人作家として世に送り出す原動力になりました。
青木家略系
有田ではその昔、内山地区と呼ばれていた所が大家に見舞われ、先祖の足取りにつながる大切な資料を焼失したと言われています。後の世に言う文政の大火と呼ばれるものです。私の先祖は、幸いに火災を免れた外山地区で代々生活していたため、お位牌さんや各々の家で管理をする過去帳が比較的残っており、それを元に調査をすることができました。一族の皆様には快くご協力頂きましたこと心より御礼申し上げます。
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青木龍山清高工房の誕生まで
寛文年間 |
筑前青柳より、肥前有田に移住、次男は鍋島候に仕え幕末に至る。(*1)
一方、長男は有田に残り窯焼きになったと伝承。(*2)
(*1)昭和七年発行の昭和風土記、篠田皇民著による
(*2)佐賀県立図書館、郷土資料室の鍋島家歴代藩士、青木家の系図による
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~江戸時代
(外尾登時代) |
外尾登りの窯焼き(有田町外尾山)として、その炎を守り続ける。(*3)
(*3)佐賀県近世資料の泰国院様御年譜地取の中や九州陶磁文化館の研究紀要第2号による
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明治・大正・昭和 |
明治14年 |
青木甚一郎窯焼きとして独立
[青木甚一郎]
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明治32年 |
青木兄弟商会を起業。国内外向けの日常品から貿易用の美術品までを手広く手掛ける。 |
昭和25年 |
青木兄弟商会に暗雲が見え始める。その頃龍山は東京の多摩美大の教師として活躍。
[青木龍山 独立から結婚まで]
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昭和28年 |
会社再興のため、龍山は故郷有田へ呼び戻され、一族と団結し会社の立て直しに奔走する。 |
昭和32年 |
青木兄弟商会倒産。龍山は個人作家として独立。 |
昭和・平成~ |
昭和38年 |
青木龍山窯として、ちいさな炎ながらも復活。
[青木龍山 龍山窯の誕生]
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平成20年 |
青木龍山逝去。
息子清高は父龍山の意志を受け継ぎ、現在の青木龍山清高工房となり、現在に至る。 |
茂助からの先祖が眠る報恩寺境内ないの墓
言い伝えを、物語るような青木傅右衛門夫妻の正徳年間の有耳五輪塔
ここには三代から七代までの先祖が眠る。
青木兄弟商会時代
旧青木兄弟商会跡地
(現.外尾山防災広場)
今では、明治、大正、昭和と稼働してきたその工場の面影を残す建物はすっかりなくなり、広い跡地は、外尾山防災広場と名前を変えて地区の人々に利用されています。
しかしこの広い敷地の中で一世紀にも及ぶ長い間、貿易品を中心に国内向け製品や、絶縁碍子などを製造するための窯の炎が燃えつづけていたことを知る人は随分少なくなりました。青木兄弟商会の黎明期を幕末の太平・茂助兄弟の時代からだとすれば、昭和三十二年に会社が人手にわたるまでの百年間、実に、四世代にわたる人たちが、この地で活躍してきたことになります。ここに当時活躍した人たちを紹介したいと思います。そして今、この敷地に立ち目を閉じ耳をすませば、写真でしか会えない曽祖父を中心とした人たちの有田の陶工としての誇り高き息吹が聞こえてきます。
2012年1月25日
青木 清高
青木兄弟商会時代の先人達
ギャラリー
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