当工房について 青木家の先人達
青木家の先人達

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写真:明治30年頃撮影

青木茂助(1830~1910)

私(青木清高)から遡ること五世代前の茂助は、先代、伊右衛門の三男です。
長男、市太郎が家業である窯焼きを中途断念(*1)したので、二男の太平と共に代々続く外尾登り青木窯の窯焼きになりました。幕末の有田も今の時代同様、窯元は分業制で、太平はロクロ細工、茂助は絵付を得意としたそうです。
しかし明治元年独立し、卸商に転向しました。家財全てを売却し極貧の中での独立で、それは大変であったと思います。慶応という時代から明治という新しい時代になり、政府が明治四年に出した新貨条例により円が採用され貿易をはじめとした商売の上でも新しい風が吹きつつあった時代だったのでしょう。茂助は、両替商も営み、長崎へも頻繁に出かけました。
明治二十五年に六十二歳で隠居するまで地道に商売の道を進んだと伝えられています。その努力がのちの息子達の会社、青木兄弟商会の礎になったことは言うまでもありません。

(*1)市太郎は、有田の儒学者谷口藍田の門下となり、その後有田中部小学校の前進である黒牟田学校という私塾の塾長となった。

 


写真:大正初め頃撮影

青木甚一郎(1863~1955)

十代前半の若い頃は、伯父太平の窯の製品を天秤棒を担いで伊万里まで運び家計を助けていましたが、明治十四年、父親の資金援助もあり当時経営不振だった外尾登り(*2)の数室分の権利を買取り、製造と販売を同時に行うようになりました。甚一郎は時代の先が読める実業家タイプの人であり、製造を手がけて数年後には、外山地区の窯焼きの地位向上を考え、肥前陶磁器合資会社設立のために尽力しました。
明治三十二年には窯を法人化し合名会社、青木兄弟商会を設立しました。輸出用製品の生産に乗り出し、神戸の出張所より四角の中に青のブランドで、海外に製品を積み出します。明治四十年の統計調査によると従業員数七十五人で香蘭社に次ぐ有田で第二位の規模でした。


写真:昭和初期撮影
前列中央が甚一郎

会社経営の傍ら政界にも進出し村議六期、村長三期、県議一期も務めました。大正四年には県の海外視察員として東南アジア、インド方面を訪れ貿易の実情を視察しました。甚一郎が天秤棒を担いで通った道は旧西有田を経て伊万里港へ通じる往還ですが、途中の道端に土地の人が、「甚一郎さんの石」と呼んでいた石があったそうです。伊万里までの長い道のりの途中腰を下ろして一服した石が、後に窯業界、政財界で活躍した甚一郎の立志伝として語り継がれたのでしょう。私もその石をずいぶん探しましたが百年の歳月の中、区画整理や道路拡張もあり見つけることはできませんでした。

(*2)明治九年の登業盟約によると当時外尾山には地元の有力者九人が使用する登り窯があった。

 


写真:明治40年代撮影

青木栄次郎(1874~1931)

茂助の次男で、甚一郎の実弟、明治二十年代より兄の片腕となり後の青木兄弟商会の設立にも大きく貢献しました。日露戦争から復員後は神戸支店の支店長も務めました。


写真:明治30年代撮影
神戸支店

温厚で実直な性格で、兄の甚一郎が積極的に経営の傍ら村政や組合の仕事で活躍していたのに対し、分を守り会社を実質的に支えてくれた人だったそうです。その短い人生の中、不況による業界の危機、会社の危機もいく度となく経験しましたが、甚一郎の影になり、青木兄弟商会のために経営の道を地道に歩んだ一生でした。

 


写真:昭和2年撮影

青木俊郎(1893~1971)

俊郎は蔵前の東京高等工業(現、東京工業大学)を卒業して、家業である青木兄弟商会の経営に着手します。語学も堪能で化学的知識にもとづいた最先端の窯業知識を身に付けていたため、町内の研究機関の人たちへのアドバイスなどもやっていました。
戦時中は片腕の弟、重雄が出征したため、一人でその経営に奔走します。青木兄弟商会は有田陶業有限会社と社名変更しその社長に就任しました。物資不足で国防色一色の中昭和十九年、軍と政府より、磁器製手榴弾や軍用食器などの大量製造なども命じられますが、磁器製手榴弾に関しては終戦まで使用されなかったということで、私は陶芸家の端くれとして、幸いだったと思っています。俊郎もきっとそう思ったに違いないでしょう。戦中、戦後は会社にとってまさに受難の時代で、その立て直しに尽力しました。
仕事以外では謡曲にも優れた才能を発揮し数多くの弟子を育てました。俊郎は私が十四歳の時になくなりますが、晩年、静かに縁側で読書をしている姿が目に浮かびます。最も苦しい時代、波乱万丈の人生を会社に捧げた人でした。

 


写真:昭和10年撮影

青木重雄(滋雄)(1896~1975)

甚一郎は海外視察の経験から、これから国際舞台で活躍するためには、学問が必要であることを充分認識していました。そこで三人の息子全員を大学に進ませます。祖父の重雄は当時有田村から初の早稲田大学へ進んだ人でした。経理の専門家だったのですが私が高校の頃まで英語を教えてくれました。今回の話の中では登場いたしませんでしたが、弟、和信も神戸高商(現、神戸大学経済学部)に進みます、長男俊郎を工場の要とし、弟二人は海外との貿易でその力を発揮してもらいたいと考えていたのでしょう。重雄は大学卒業後、会社の裏方として着実にその地位を固めてゆきますが、日本の戦況悪化の中、四九歳で陸軍少尉として出征します。戦時下の一番厳しい時代の経営を兄、俊郎に一任し、申し訳ない思いがあったと思います。無事復員しますが、戦後の不況の中、東南アジアへの輸出の失敗で、会社はさらに厳しい時代へと進んでゆくのでした。
昭和三二年会社が倒産したことで窯の再興には強い執念を持ち続けていたのか、後年父、龍山が東京の叔父満武氏の資金援助で個人作家として小さな窯を作ることができたときは、言葉では言い表せないほどの喜びようだったそうです。龍山の特選受賞から四年後亡くなりましたが、父の作家としての運気が向上してゆく最初の姿を見届けてくれたことが何よりでした。

 

 


写真:昭和19年撮影
最左 青木恭氏
最右 青木久重(龍山)

戦時下の昭和一八年~一九年ころかと思われる写真、青木兄弟商会の第四世代となる二人が、将来に希望を持ってレンズに収まっています。
最左が本家の長男、青木恭さん、最右が私の父、若き日の龍山、東京からいとこの、満武乾一さんが有田を訪れた時の記念写真、一番小さな男の子は松本郁夫さんと思われます。終戦後、昭和三二年の会社倒産という辛い経験をしますが、さんも、龍山も、有田焼に関わりを持ちながらそれぞれの道を進んでゆきました。

 

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