窯主エッセイ 天目と龍山の出会い
天目と龍山の出会い PDF 印刷 Eメール
作者: 青木 清高   
2012年 11月 26日(月曜日) 19:04

天目と龍山の出会い

写真:染錦「激浪」

青木龍山は、昭和38年に初の天目作品、黒が、日展に入選します。これが天目との出会いの作品になります。じつはこの天目作品には、ひとつのエピソードがあります。

昭和36年出品の激浪、翌年、37年の染錦「壷」、この2点は2年連続で特選候補になったそうです特に昭和36年の激浪は1票差で特選を逃しました。青木龍山の作品はその当時染錦による表現で中央でもかなり高い評価を受けていたことがわかります。しかしなぜ天目の技法に切り替えたのか、そこには特選を狙うもう一人のライバルによるしたたかな作戦のため、これまでの染付、赤絵、染錦と決別し否応なしに天目への切り変えを強いられるかたちになったのでした。その当時の関係者は皆故人になられておられるのですが、この出来事のおかげで、天目が青木龍山の代名詞にまでなり、最終的には文化勲章にまでつながって行ったことを思うと、いまはこのライバルの出現に感謝すべきなのかもしれません。

 

自己表現としての天目

前にも触れていますが、龍山は釉薬のみを天目として認識していた訳ではありません、このホームページの中でも紹介しておりますように、曜変天目、油滴(滴珠)天目、玳皮天目、河南天目、などもかなり研究しておりました。それはいかにすればそれらの技法が自分の作品の中で表現として可能かを模索するためのものでした。ですから現在でも完成された茶碗の数よりテストピースの量が多いのです。その中で特に、銀砂天目という技法と命名は自分が失敗の中から生み出した独自のものであり古典には見られないものだと言っておりました。


写真左:1970年代後 曜変天目 青木龍山作(青い部分は虹色に角度により変化する。)
写真右:1970年代後半 還元焼成の油滴天目 青木龍山作

写真左:平成3年度日本芸術院賞受賞作品、この作品で銀砂天目の技法が見事に開花している。

 

白磁の街有田の天目作家

写真:絵皿制作中の龍山 平成16年

しかし父の最晩年は天目でも窯の中での窯変に期待する技法より、天目釉を背景にした釉薬による絵の表現である釉彩にたどり着いたように思います。亡くなるまで描きたいという衝動があったのでしょか?今でもアトリエでは、直前まで手がけていた牡丹の天目釉彩皿がこよなく有田を愛した作家人生を静かに語りかけてくれています。

 

日展評議員 青木清高

 

天目とは

天目釉は鉄釉を基本とした黒色の釉薬である。天目とはもともと中国浙江省の山の名で、当時の禅寺から宋時代の黒色釉茶碗が我が国にもたらされ、この種のものを天目と呼ぶようになった。
本来は高台部分が小さく、朝顔型に口の開いた黒色の茶碗を意味していたが、天目釉(黒色釉)と天目形茶碗のように釉薬と形が分離して用いられるようになった。
青木龍山の場合の「天目」とは、この黒色釉のことを意味している。天目釉は、透明釉に鉄分10%以上加えると黒色の釉薬となり、鉄分の他マグネシュウムなど各種の金属を含むとさらに複雑な釉調となる。鉄分を主体とする釉薬であり、鉄釉と同じ意味で用いられている。龍山氏の天目釉は、独自の調合と焼成法により各種の発色をなす。

青木龍山回顧展より龍山作品の特徴と展開  鈴田由紀夫先生の論考より

 

 

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最終更新 2012年 11月 28日(水曜日) 08:23
 

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